【ノンフィクション連載】自分のなりたい職業をさがしたら、多分まだこの世に無い職業になると思った - 出産祝いはパスポート

【ノンフィクション連載】自分のなりたい職業をさがしたら、多分まだこの世に無い職業になると思った

先日フィリピン親子留学とロングステイのサポート事業panatag(パナタグ)を立ち上げました。
これは旅人であり、2児の母であり、安達由恵36歳という人間の人生初の起業となるわけですが
お母さんならではの働き方として家族との時間を最優先にしたうえで
なおかつ母であり旅人であるという部分がスキルとして生きる道を見つけ出し自分自身で構築する
…というとものすごく固いのですが
もしも、この世の中になりたい職業というのがあるのなら
まだ存在してない職業になると思った。私の個人的なキロクです。


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暮らしながら出来る親子留学 panatag





雇われる生き方から切り開く生き方へ

2014年4月。5年に渡る自主保育(保育所や園に頼らず自分で育てる事)に終止符を打ち
子供達を保育園にいれようと言う事で実に6年ぶりに社会復帰を考える機会に当たりました。
最初は知人であり、ビジネスの師匠でもあるサーフショップオーナーのおやじさんにお世話になる事に。
自宅を改装してゲストハウスにするその立ち上げのお手伝い…と言えば聞こえはいいけれど
基本はその大邸宅の清掃。
ありがたいことにその労働条件は好きな時に好きなだけ、コーヒーを飲みながらでも
そこにある何百冊もある本を読みながらでも子連れだって構わない。
そのうえオヤジさん直々に商売の基本、ビジネスの基本を教えてもらいながら働く
という条件で雇ってもらえることになりました。

旦那が個人事業主のくせに、一般的なサラリーマン家庭に育った私にとって
(しかも教師と銀行員に囲まれたガッチガチの)起業やビジネスと言うのはまったくの別世界。
今までにお小遣い稼ぎでヤフオクの転売、せどり、海外購入品の販売などはやって来たけれど
せいぜい稼いだ所平均して月に2~3万円(月の最高額30万以上)
それをビジネスと呼べる域にまでもちあげるのは頭からやり直す必要がありました


生き方を見直すきっかけ

きっかけになったのはいざアルバイトをはじめようとした時に
実家も遠く、義両親も未だ現役で働いていて
子供の体調不良ですぐ遅れて来たり、休んだりするような従業員なんてみんないらないということでした。
今までやって来たアパレルならある程度の収入は見込めるけれど、土日祝休みの販売員なんてありえない。
それになにより私は休みの日には外で一緒におもいっきり遊んで
美味しいものでみんなのお腹をパンパンにして
太陽のニオイのするフカフカのお布団で眠ってもらう。これが私の一番大事なミッション
これが出来ずして私の自立はありえない。
どっちかを捨てるんではなく、どうしたらいいのかを考えなくてはならなくなった。


家族を大事にするには理由があった。
私が2歳のときから母はフルタイムで働き始めた。
しっかり者で真面目な母。正直で、自分の分は我慢してでも私達子供達に全部捧げてくれるような母。
外食も殆どしないし(家族で外食なんて1年に1度あればいいほう)みそ汁のお出汁だって毎日とってあるし、服だっていつ買ったの?ってくらい何年も同じ服着てるのに
子供達には一切苦労させないようにと贅沢ではないけれど何不自由なく育ててもらった。
やっと子供達の手が離れた時に、やっとゆっくりしてもらえるのかな。と思ったら
お父さんがお仕事終わるまでもうちょっとだから。って贅沢1つしないで我慢してた。
思えば私が小さい頃は家族で一緒に旅行した事も、授業参観にお母さんが来た事もなかったし
体育祭で両親がきたこともなく、先生と一緒にお弁当を食べていた
保育園のお迎えも6歳上の姉がしてくれて、私は小さな頃から鍵っ子として育った。
寂しかったけれどそこまで働くには訳があって互いに早く父親を無くしたうちの両親は
金銭的な理由で学校にいけなかったため、どうしても子供達には大学に行って欲しかったから
私の両親は子供3人を育てる為にそりゃもう必死で働いた。

死はある日突然に目の前に現れる

だけどそんな母に対して、無情にもある日突然その宣告は行われた
病名はガン、既にステージは4。手のほどこしようも無く体中に転移し、
今母はもう立ち上がる事すら出来ない状態にある。
24時間続く疼痛で時には叫び声をあげる母
完全に寝たきりでご飯も食べられないし、完全介護がないと生きる事もできないのに
それでもまだ1年以上はこの生活を続けることになりそうだというものだった。
しかも解決方法は既になくそのうち寝返りを打つだけで体中の骨が折れ激しい痛みの中で最後を迎える事になるらしい。

母はいつでもあんたたちが笑ってくれてたらそれでいい。
そういってくれた。
でもいっぱい管に繋がれて、痛み止めで常に天井を薄ぼんやり見上げる今の母を見て
心の底から思うのはもっと両親にもわがままに生きて欲しかったということ
母が子供を思うように、母親を犠牲にしてまで幸せになりたい子供だっていないはずだ
私は子供達が母さんまた遊んでるよ、ってちょっと呆れる位笑っていられる人生を作っていきたいと思った。

母の後悔、私の決意


後に母はそんな生き方を悔いていることがあった
そのなかで特に何度も言っていたのは
『お母さんなんだから、余裕が無くなって、家庭が壊れる程働いちゃダメ。自分と家族大事にしなさいね』
というものと
『◯◯(兄)は考古学者になりたかったのにお母さんもお父さんもなれるわけないっていい大学に入って、大きな会社に入るっていうレールに縛り付けてしまった』
というものだった


親がいなくても子は育つ
だけど少しの変化も出来るだけ逃さず、最適な方法で最善の策をとるためには
自分の性格上私自身に余裕がなければ出来る事じゃない
わたしはやっぱり働き方を見直す上で第一の職業がお母さんでありたい
出来るかどうか分からないけれど、お母さんであるがゆえの生き方を私なりに探してみたいと思った。


つづく
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